世界の時計とブランドを深掘りブログ 第2回
ABUNDANT TIME 代表 壽藤
前回に引き続き、Girard-Perregaux ジラール・ペルゴです。
日本への海外時計普及に尽力されたフランソワ・ペルゴさん。僭越ながら同じ時計師でもありますのでフランソワ先輩ですね。
彼の何が惹きつけるのか?
「 ガッツがある 」
これに尽きるのでは無いかと考えます。
スイスの時計師さんや、独立時計師さんにお話する機会があり、よく私は「山の中(特に冬は雪しか無い)でお仕事されてメンタルは大丈夫なのですか?」と伺います。
どの時計師さんも決まって「“情熱”があるから大丈夫🙆」と。
時計師は本当にこの言葉を多く使います。
情熱の素となる要素には「これで食って行くんだっ!」という思いからや「人に喜んで貰える。」その光景が思い浮かぶからだそうです。
きっとフランソワ・ペルゴさんもそうだったのでしょう。
François Perregaux
創業者コンスタン・ジラールの義弟(奥さんの弟)、フランソワ・ペルゴは1861年に日本に渡りますが、当時日本は幕末で鎖国中。ややあって横浜(現在の中華街)に商館を置き懐中時計の販売スタートします。
ところが全然売れません。
それもそのはず、一般的な日本人は腕時計なんて持っていませんし、そもそも高価過ぎて買えません。そのうえ、彼らが見ていた時計をした多くの日本人は極限られた少数の税関職員だけだったのです。
最大の敗因は、日本は未だ「不定時法」であったこと。販売している時計は全ての時間が等間隔の「定時法」です。
「いゃ〜やってしまいました。」
じゃ済まない話ですよね。
※不定時法:夏至・冬至によって1日の昼夜の長さを変える時刻制度。
「夏は日が長いので昼間は時間の間隔を長くしましょう。でも夜は短いので時間の間隔を短くしますね。」日本版サマータイムです。
1864年1月12日、オランダ政府の支援により、ヨーロッパの商品を日本に輸入・販売する事が可能になり、海外輸入「&PERREGAUX」ブランドを立ち上げます。
同年、正式に自社を本村通り(中華街)に「F.PERREGAUX&Co.社」を立ち上げます。
時計販売、そしてジュエリー、輸入、修理、セッティング。ジラール・ペルゴのファームであり、日本における唯一の代理店です。音楽アイテム、時計、ファンシーアイテム、宝飾品などは当時の日本国民には高価過ぎて、とても購入できる品物ではなかったとか。
「これが舶来物かぁ。」
“ I’m just looking, Thank you. ”
これでは現実的にやっていけないので輸入品以外の商売も手掛けています。
1868年には同じ居留地で英国人の「ノース&レー商会」が既にレモネード、ジンジャーエールなどの炭酸飲料を製造販売していたことから、これを真似てソーダや甘味シロップの製造販売も手掛けるようになります。
当時、港の外国人向けにレストランやバー、劇場など、さまざまなアクティビティが施設からの需要があったとか。
スイス商人によって設立されたスイス・ライフル協会など、横浜に進出しているすべての国の代表が参加する、横浜の最高峰となるイベント(年2回)などフランソワが会長を務めており、外国人を対象とした数々のイベントをプロデュースする仕事もされていたようです。
ユリウス暦からグレゴリオ暦に
グレゴリオ暦になり「定時法」に変わりました。日本全国の時計はすべて使い物になりません。
「さぁ、これからバリバリ売りまくるぞ!」と行きたいところでしたが…
その後、会社は軌道に乗ったと言われておりますし、多くのメディアでもそうように取り上げられております。
しかし、それはシンガポール、中国、アメリカ、南米の総売り上げを含めたジラール・ペルゴ全体でのでのお話。
全く違います。
フランソワが担当した日本のマーケットでは、年間3本しか売れなかったり、実際のところ時計の売り上げは最初から最後まで絶不調でした😣
自宅にドロボーが入り大切な時計や金品を盗まれたり、お店が火事になったりして……
残念ながら、夢半ばの43歳という若さで脳溢血(のういっけつ)により亡くなられます。
その後、フランソワの遺品である全財産が競売にかけられました。
138番地の敷地、倉庫、その敷地内の所有物、顧客リスト、蒸気機関、ボイラー、フィルター、シロップ、サイフォン、炭酸水1万5千本、良好状態の乗用車。
そして……僅かな時計。
これを見るとフランソワ・ペルゴという人物が如何に辛抱強く取り組み、弛まぬ努力の人であったか。ご理解いただけるかと存じます。
「スイス領事館総領事代理」まで務め、イベンターとしての実績、そしてプロデュース能力があったにも拘らず、日本で時計が売れなかったのは何故なのでしょうか?
どこも時計は売れていなかった……
当時、海外との貿易には“商館”と呼ばれる外国商社に独占されておりました。
横浜港だけでもスイス、フランス、ドイツ、アメリカと30近くの商館があり、ペルゴ(当時はペレゴー)もその1つに過ぎません。
中でもシーベル・ブレンワルド商会(現DKSH)は横浜で創業した最初の商社あり、生糸、ガス、大砲など横浜だけでなく、日本の発展に大きな役割を果たした大企業です。私の先輩方にもシーベルご出身の時計師が多くいらっしゃいます。
ナブホルツ商会はシチズンとのご縁が。ブルール・ブラザーズ商会はセイコーとのご縁があったりと横浜港は時計と繋がりが深いのです。
このようにどの商館も時計を販売しており、時計は「商館時計」と呼ばれ商館ごとにオリジナルの刻印をケースに打刻・販売しておりました。
1890年以前はどの時計も高価でしたのであまり売れておりません。よって、何処の商館も多角経営をしておりました。ジラール・ペルゴに限らず、どこも時計販売には苦戦していたのです。
ただ時計メーカーであったジラール・ペルゴは、やはり時計の製造販売が本業です。
「時計1本でやって行きたい!」というフランソワの“情熱”は人一倍に優っていたのではないでしょうか。
横浜外人墓地
今回、ブログを書くにあたり当店から近いこともございますで、フランソワ・ペルゴのお墓参りに行って参りました。
公開順路案内図にはお墓の解説がございます。フランソワのお墓もそうだったのですが、記載されていないお墓もあります。
「誰々のお墓はどこに?」と言った場合は、スタッフの方にお問い合わせ下さい。別紙案内図を配布してくださいます。
墓地略史年表を見るだけでもワクワクするのですが、「サムライに憧れて来日されたイタリア貴族」の方のお墓があったり、不幸にも米軍人ら115人の犠牲者を出した「オネイダ号沈没乗船者記念碑」の大きさに圧倒され、実際に見ることで時代の変遷を色濃く感じられました。
フランソワのお墓は2000年に見つかったと言われておりますが、その大きな墓標には
「 F`çois(François) Perregaux Le Locle Neuchâtel 」
とガッツリ書いてあります。フランソワが読めなくとも、時計業界の方なら「ペルゴ、ル・ロックル、ヌーシャテル」と書いてあることは解り、直ぐにピンと来るはずです。
正確には「見つかった」では無く、「誰も目を向けていなかった」ことが事実なのでしょう。
実は路地からも望めるのです。現在はGoogleマップでも確認出来ます。
https://maps.app.goo.gl/DjKDYBsq3MXaNYQR8?g_st=ic
墓石には匿名で
“フランソワ・ペルゴの思い出に
1834年6月24日、スイス、ヌーシャテル州、ル・ロックル生まれ。
1877年12月18日、横浜で逝去。
彼の友人”
隣には寄り添うように大理石の柱を切り詰めた形の小さなお墓。
碑文には「ELIZA DIED 9 JULY 1864」幼くして亡くなった女の子のようです。
フランソワ・ペルゴは結婚していたのか?
娘はいたのか?
現在でも判明していないそうです。
大変驚きましたが、本当にそうなの🤔これに関しては引き続き調べてみることに致します。
話は変わって実は外国人墓地。財政厳しい状況が続いております。
当然、フランソワのお墓も同様です。公式HPでは「この墓地の維持・管理費用の9割近くは、この募金活動で集めた資金で賄われています。そのため、募金が無ければ当財団は赤字運営となってしまう自体に陥ることになります。」との記載がございます。
私なりに募金活同支援の呼びかけ考えていたのですが、何故かお断りされました😭
ジラール・ペルゴは
「World Time Control François Perregaux Tribute Yokohama」
(フランソワ・ペルゴ ワールドタイム ヨコハマ モデル)の時計を発売しております。
当店でも2本のOHご依頼がございました。
こうした経緯もあった上でのお墓参りだったのですが、周りの状態を見ると「ちょっと可哀想だなぁ」と言うのが素直な感想です。
昔も今も外人墓地の外柵にはツタが鬱蒼と絡まり、雑草は伸び放題…。
地元住民としては何だかモヤモヤ感が残ります。
しかしながら、大好きなブランドの1つでもあります。横浜ブランドと言っても間違いない(怒られないであろうと)
フランソワ先輩にも負けないガッツで今後も応援していきたいと思います。
趣があって、手の届きやすいビンテージGPも良いかも知れませんね。
生麦事件の墓標でネコが休んでおり、なんとも言えない「時の移ろい」を感じました🐈